逸脱する
2005年7月8日
しの

惹かれることがある。

確固とした理由もなく、わけも分からないまま、惹かれて惹かれて、自分でも説明の付かない奔流に巻き込まれ、思いもしなかった遥か彼方にまで流され、みたこともない浜辺に打ち上げられる。

そのとき、わたしはそれを意外なこととしては捉えていない。ああ、やっぱり、という、諦めにも似た確認がゆっくりと訪れるだけ。そうならないように細心の注意を払ってきていたのではないのか。無造作に踏み出すように見える一歩一歩を、人にはわからないように、注意深く確実で安全な地面に下ろしてきたのではないのか。

それでも、いつかはこうなることは分かっていた。絶対にそうはならない、と言い聞かせながら、心の隅で

でも、きっと、そうなる。

と、つぶやきながら生きていた。

今、一人、見知らぬ浜辺で、みたこともない星座を見上げながら、予定調和をかみ締めている。

たとえば、人に惹かれる。それを恋と呼ぶことができる。そうして名前をつけた瞬間、その恋について話すことができる。恋についてほかの人に語り、誰かの経験と似たひとつの類型に還元する。理性や論理の及ばない狂気のような経験を、記号の世界に持ち帰り、筋道を与え、整理し、安全な他者との共通項を持つ「恋」という経験に置き換えることができる。

僕は恋をしている。

そう叫んだとき、人はそこで、他者にわけもなく惹かれるという冒険を放棄し、今までに何度もあった、これからも何度もある、陳腐な恋を手にすることになる。そうすることで、社会からの逸脱者、反道徳者であることを拒否する。

でも、表現することが不可能なことが世の中にはあるのだと思う。そして、できないではなく、してはいけないという積極的な禁忌も。言葉に直して、表現の枠組みに閉じ込めて、筋道を与え、意味を与え、他者と共有できるようにすることでその出来事の持つ破壊の本質を無効にすることが許されない事件。

表現できないというそれだけの理由で、その出来事(そう呼ぶのが正しいのだとすれば!)は、「わたし」というナラティブの中から疎外されてしまう。でも、その破壊の本質はわたしの中に残り続ける。語ることが許されず、理性のロゴスで去勢されていないその出来事は、時間性を持たない。ゆえに、わたしの中に、瞬間瞬間ごとの破壊をもたらす。

わたしは相反する、でも補填しあう、破壊と創造の両義性を生き始める。整然とした線状に粛々と進む時間性のナラティブに隠された、破壊の非時間性。理性と記号のうらで、すべてを無効にしようとする破壊。善悪の判断の及ばないその混沌とした破壊の空間。

名前のない事件を経験する。逸脱者としてのわたしは、リミナルな地平を生き始める。





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二人の本当の始まりは偶然にも雨の降りしきる7月7日でした。その翌日に書いた日記。少々手直しをしてあります。